
平成十七年・冬の京都。
雪の降り積もる一条戻橋の上に男が横たわり、今まさにその命を終えようとしていた。
事の発端は三日ほど前に遡る。
流星学園中等部一年・赤井時経は、修学旅行で東京からここ、京都に訪れていたが、事もあろうにバスがトイレ休憩で立ち寄った山奥の休憩施設に置いてけ堀にされてしまったのだ。
普通、バスが発車する前に引率の教師が点呼をとるものだが、時経は小学生の頃に教師を怪我させてからというもの、なるべく目立たず、息を殺して学園生活を送っていたため、相当影が薄かったのだ。見た目の厳つさと相反して大人しい時経が、級友から揶揄われることになるのにそう時間はかからなかった。おそらく教師は点呼をとったものと思われるが、時経の番が回ってきた際にクラスメイトの誰かが巫山戯て返事をしたのだろう。
置いてけ堀を喰らったことは十二、三そこいらの少年には精神的に結構キツかった。でかい図体が激情のままに動けば他者を傷つけてしまうのだということを知り、以来、自身が良かれと思ってしてきたことのツケがこれである。
だが、何時迄も嘆いていて立ち尽くしている場合ではない。上着も財布も携帯電話もバスに置いたままだった。冷たい外気に晒され続ければ体は冷える一方だし、寒くても缶コーヒー一つ買えない。仮にここが電波圏内の山であっても助けも呼べない。日が落ちればもっと冷え込むだろう。
よって、日があるうちに自力で下山を試みたのだ。
だが、見立てが甘過ぎた。
山をなめているつもりはなかったが、無駄に胸筋を鍛えていたために無駄に体力に自信があった。それがある意味驕りだったと言えなくもない。
体力にものをいわせて、とにかくひたすらまっすぐ歩き続ければいずれ人里にぶつかるだろうと踏んだのだが、行けども行けども木、木、木だった。
それはそうだろう。
山岳国家日本。この国の七割近くが山であり、そして木である。そんな広大な中を当てずっぽうに歩き、地図から消えた廃村にでも迷い込めれば大したものだ。
時経は後悔した。
休憩施設はトイレ以外ほとんど何もない場所だったが、少なくともそのトイレには屋根と壁があった。高速パーキングのように冷暖房完備とまではいかないものの、雨風くらいは凌ぐことができ、体温の低下に気をつけながら個室でひと眠りすることもできたのだ。
歩くにしても、せめて、真っ直ぐなどという愚直な考えは起こさずに、曲がりくねってはいても人の造った道路の上を行けば、何らかの形で人にぶつかったかもしれない。
だが、そう思ってもそれらはもう後の祭。
低体温と野生動物襲撃の懸念から一睡もせず夜を明かさなければならなかった。
そんな夜を三回ほど繰り返しただろうか。
日が傾き始め、四度目の夜を迎えようとしていた夕方近くのこと。
時経の鼻が、胃袋を刺激する香り高い匂いを捉えた。時経は、嗅覚に導かれるまま足を進めた。
草木をかきわけ進む。
徐々に姿を見せ始める人工建築物。
微かに聞こえるクリスマスソングのメロディ。
裏門と思われる小さな入り口から、寺院と思わしき人工建築物の敷地内に足を踏み入れる。
遭難者と成り果てた時経に残されたわずかな理性は、この時はまだ、寺の人間に救助を求めようと働いていた。
……厨房に入り、皿によそられたビーフシチューを見るまでは。
悪を憎み正義を愛する時経の意思など無視して、彼の体は勝手に動く。匙を手に取り、ビーフシチューを掬う。
――やめろ、やめろ……やめろ!
わずかに残された良心が叫ぶ声も、時経にはもう届かない。
匙を口に運ぶ。咀嚼する。
これは……牛肉の代わりに高野豆腐を使っているのだろうか。微かに大豆の香りが鼻から抜ける。
今の時経にとって、悪を正すよりも食レポの方が重要だった。この精進ビーフシチューを口に入れた瞬間から、彼の中の正義は死んだのだ。
「何してんだ、おめ」
そう声をかけてきたのは、僧侶服を着込んだサンタ……いや、サンタ帽を被った僧侶だった。
時経は我に返った。
そして、――己のたった今犯した罪を自覚し、青ざめる。
「御住職ー、早くビーフシチュー持って来て……あら?」
そう言いながらもう一人、今度は全身サンタ服を着込んだ若い女性が厨房に入って来る。イミテーションだろうが、外側が黒、内側が白の翼を背に携えている。
「なあ先生、ボランティアの人なんか雇ったのか?」
僧侶サンタが訝しげに時経を見ながら女性サンタに訊ねる。先生と呼ばれた女性サンタは少し困ったように「んーっと……」と呟く。何か言いたげだったようだが、時経はその言葉を聞きたくなかった。サンタ先生が何か言おうと口を開きかけた瞬間、時経は猛ダッシュで厨房を飛び出していた。
時経は走って走って、がむしゃらに走り続けた。いつの間にか雪が降り始めていたことにも気づかないほどに、とにかく走りまくった。
何時間経っただろう。
時経は既に、街へと足を踏み入れていた。しかし、しんしんと降り積もる雪の中、出歩く者はなど他にいない。道路に積もる雪の上に轍も見られない。
時刻も相当遅いのだろう。目につくすべての建物から灯りはなく、ただ街灯と信号機がかろうじて闇を照らす程度だった。
当て所なくフラフラと歩く時経。体力も気力も限界だった。転べばきっと立てないだろう。
そして、足がもつれてついに転ぶ。
橋の上だった。
案の定、立つことはおろか、指一本さえ動かすのは億劫だった。とはいえ、顔を雪に埋もれたままにしておけば窒息してしまう。最後の力を振り絞り、どうにか仰向けになる。
深い漆黒の闇から落ちる雪は、少しずつ時経の体を埋めていった。全身が刺すように痛い。
「……どこで間違えたのかな」
声に出たのか出ないのかわからない申し訳程度の声で、時経は呟いた。
――罪を咎められそうになり逃げ出した時?
匙を口に入れた時?
あるいは、自力で山を降りようと考えた時?
いや、違う。
もっと前から自分は間違っていた。
常日頃から人との繋がりを大切にしていれば、今回のような置いてけ堀は喰らわなかっただろう。教師を怪我させたことを言い訳にして、人付き合いを避けて来てしまった。そもそも教師を怪我させたのだって、日頃の素行の悪さを注意され逆ギレしてしまったからだ。全ては自分の過去の行いが招いた結果だった。
「……バチが当たったんだな……」
時経は死期をさとった。思うにここは一条戻橋。かつて断罪が行われた場所。罪に穢れた自分にはお誂えだと思った。
正義を愛した者として、最期くらいは昔の作法に則るべきであったが、今となってはそれもかなわない。だが、自死などせずとも、問題なく天は悪を誅する。
「そうだ、これでいい」
時経は静かに目を瞑る。
「――本当に、あなたはそれでいいの?」
聞き慣れない声が聞こえた。
時経はうっすら瞼を開く。
眩い光の中に人影が見えた。その人影には、翼のようなシルエットもあるように見えた。それはまるで、
「(……天使?)」
のようだった。
「天に誅されることが本当にあなたの望みなの?陰陽師」
「陰陽師って俺のこと?」
天使の言っていることは間違いではなかった。時経の父も祖父も曾祖父も陰陽師と呼ばれる人だった。自分もまたその家業を継ぐために師である父に物心つく前から技能を仕込まれていた。
「あら、違った?式神を送り込んできたからてっきりそうかと」
「……いや、違わない。確かに俺は陰陽師だよ。モグリだけど……」
平成の世に、国家公認の陰陽師なるものはいない。故に、陰陽師を名乗る者はほぼ確実にモグリと言えよう。
「でも、式神を送った覚えはないけどな……」
確かに以前時経は式神をつくった。だが、ひとつも言うことを聞かなかったため、そのまま放置してその存在を忘れつつあった。だというのに、今更式神を使役するなどあるはずがない。
「そう。この子、よほどあなたが大切なのね。いいわね、式神に好かれる陰陽師というのも」
そう言って天使は、手足の生えた巨大な落花生を撫でる。
「でも、自分の式神に振り回されているようではまだ半人前のようね。陰陽師ではなく陰陽ボウイね」
天使は落花生に時経のそばに戻るよう促す。
時経の近くへ寄った猫ほどの大きさがある落花生型の生き物。全身が白い毛で覆われ、頭には天使の羽のようなリボン。つぶらな瞳に朱の隈取。紛れもなくかつて時経がつくり出した式神『アズサーP38』だった。
任務完了いたしましたマスターとでも言いたげに、彼女(?)は時経の前で一礼し、姿を消す。
「だけど式神は基本的に術者の意にそぐわないことはしないものなのよ。私に助けを求めにきたということは……あなた、本当は生きたいのでは?」
「……ッ」
図星を突かれ、時経は一瞬、何も言い返せなかった。
ゆるされることならば生きたかった。
全てをリセットしてやり直したかった。
でも……
「……無理だよ。俺はもう、罪に塗れた。人の歩むべき道を踏み外したんだ。この外道を生かしておく道理なんかない。もう地獄へ堕ちるから放っておいてくれ」
天使は、軽くため息をつく。
「まだ若いのに達観したようなこと言ってんじゃないわよボーヤ。この世の罪のほとんどはゲンコツ一発で浄化されるって大昔から相場が決まってるのよ。閻魔様に代わって地獄に送ってあげるからさっさと歯ぁ食いしばんなさい」
えらい極論を語る天使である。そもそも地獄へ送るなど天使のセリフではない。
だが、そんな反論をする間もなく、時経は脳天を強打される。
「望み通り、まずは死んできなさい。そして生まれ変わるの。新しいあなたに」
薄れゆく意識の中、天使のそんな声を聞いた気がした。
そして、フカフカのぬいぐるみのような何かに包まれ、どこかへ運ばれているように感じた。
***
とある場所で時経は目を覚ます。
顔は何かに埋もれているのか、ぼんやり瞼を開く程度では何も見えない。が、ここは妙にあたたかくて気持ちがいい。そして、やけに気分が良かった。
快適な環境でまずは霊魂の状態を整え、その上で浄罪作業に臨ませようということか。地獄とは意外にもホワイト企業なのかもしれないと、時経は思った。
時経は、埋もれているところから顔を離し、ゆっくりと目を開く。
「……ん?」
目の前に見知らぬ女性の顔。
「……んん?」
抱きしめられ、密着された互いの体。
「……んんん??!」
しかも、互いに全裸っぽい。
時経は慌てて飛び起き、掛け布団を引っぺがす。……なんと、パンツすら履いてはいなかった。
「ん……っ。あら、起きたのね。おはよう」
そう言って寝ぼけ眼を擦る女性もパンツ履いてない。
「だっ……!ぅぁっ……っ。こ、ここはどこですか?あなたはどちら様ですか?!」
とりあえず大事なところを手で隠しつつ、疑問をぶつける。女性はクスクスと笑い、
「大丈夫。男の子は朝はそうなるものよ」
と、していない質問に答える。
時経は眉を寄せた。下ネタはあまり得意ではなかった。
「あら、ごめんなさいね。あなたには釈迦に説法だったわね。保健委員の赤井時経くん」
「……なぜ俺の名前を?」
「あなたの制服の内ポケットに学生証が入っていたわ。それで」
財布も携帯電話も置いてきてしまった時経であったが、ハンカチとティッシュと学生証だけは常に持ち歩いていた。
女性が言うには、学生証に記述された学校の電話番号には連絡済みとのこと。宿直の教師か用務員経由で修学旅行の引率教師に連絡が行ったようだが、夕方過ぎに降り始めた雪により、しばらくは教員旅行生含め泊まり先の旅館に籠るしかない状況らしく、時経の身柄の回収には当面来れないとのことだった。
「始めの質問にまだ答えてなかったわね。ここは恵糢寺っていうお寺で、親のいない子や、なんらかの理由で親元から離れた子達を住職が面倒見ているの。私はカスミ。学校の先生をしているわ。たまにここへきて子供達の面倒を見させてもらってるの。この時期だとクリスマスが近いから、クリスマスソングを教えたりしてるわね」
時経はクリスマスソングと聞き、昨晩のことを思い出す。どこまでが現実かはわからないが、おいしそうな匂いとクリスマスソングに惹かれて寺へと行ったまでは事実だろう。
それに、この女性。どうも昨日会った気がするのだ。昨日、寺の厨房で会ったサンタ服の女性も、先生と呼ばれていた気がする。
「どうして俺、お寺にいるんですか……?」
時経の記憶にあることが全て現実なら、さっさと警察に突き出せばいい。けれど、もし夢であったなら……
「あなた、雪の中一条戻橋で倒れていたのよ。夜も遅かったし、救急車を呼ぼうにも近くに電話ボックスも見当たらないし、とりあえずお寺に連れ帰ってあたためないとって思って」
なるほど、それで全裸で抱きしめられていたというわけか。雪山遭難者を救助した際、人肌であたためるのがいいと聞く。
しかし……
「もうひとつ、質問いいですか」
そこまで現実だとすると、あの事ももはや夢の出来事ではないだろう。
「――俺はビーフシチューを盗み食いしましたか」
「……」
この質問に対しては、カスミ先生はすぐに返答をしなかった。やや険しめの表情になり、微かに冷ややかな目を時経に向けているようにも思える。言葉にせずとも、それが全てを物語っていた。
ただ、一言。
「……忘れておしまいなさい」
「……」
だが、そんなわけにはいかなかった。忘れようにも忘れることなどできない。仮に忘れることができたって、なかったことになどならない。
時経はもう、どうすればいいのかわからなかった。助けてもらっておいて申し訳ないけれど、いっそあの橋の上で凍死していればとさえ思っていた。
「……」
時経の思い詰めた心情を察してか、カスミ先生の冷ややかな眼差しに慈しみが混じる。罪を犯した者を憐れむ目とも言える。
「……死ぬわね、この子……」
時経の耳には届かない程度の声で、カスミ先生はそう呟いた。
「罪滅ぼしって知ってる?」
「えっ……?はぁ、まあ。約束を破った罪滅ぼしにケーキを買ってくるとか……そういう風に使われる言葉ですよね」
日常的によく使われる、極めて軽い言葉だ。決して大罪を犯した者やガチの犯罪者が使う言葉ではない。盗み食いとはそんなに軽い罪だろうか。
「そう。よい行いをして過去を償うことね。それはもちろん、どれだけ善行を積もうが、あなたが盗み食いをしたという過去がなかったことにはならないわ。でもね、塵芥の穢れに晒され生きる以上、生まれてから死ぬまでに全く罪を犯さないなんて絶対無理よ。ならば誰もが自刃すべきなのかといえば、そうではないわ。罪を犯すたびに、罪を滅ぼしているから、どれだけ穢れようとも生きていける。人の道を踏み外したあなたにまだ人の心があるというのなら、人の世の理に則り、善行をもって罪を禊なさい」
カスミ先生はそう言い、時経に着替えを渡す。
時経は着替えを受け取りながら、カスミ先生の言うことは確かにそうかもしれないと思った。
最後に聞いた天使の言葉を思い出す。
“まずは死んできなさい。そして生まれ変わるの。新しいあなたに”
きっと自分は、あの橋の上で一度死んだのだと、時経は思った。
再び与えられた命で、もう一度やり直そう。そう思いながら、受け取った着替えを広げる。
「ん……?……ちょっ……、な、なんですか、これ」
「何って、着替えよ?あなたの制服、今、洗濯中だから代わりのものだけど」
何かおかしなところがあるかしらと言うように、カスミ先生は小首を傾げる。
「いや、……そういうことじゃなくて……。……これ、メイド服じゃないですか!」
「改めて言わなくたって、そんなの見ればわかるわ」
「いやいやいやいや……、なんでメイド服なんですか!」
カスミ先生は、少し困ったように考え込む。
「盗み食いの罪滅ぼしとして、まずは盗んだ分を返すためこのお寺でタダ働きしてもらおうと思ったんだけど……嫌だったかしら」
よって奉仕者の服というわけだ。しかし……
「俺、男ですよ?メイドさんって女の子ですよね」
「確かにそうね。でも……」
カスミ先生は一呼吸置く。微かに不敵な笑みを湛え、こう続ける。
「あなた、こういうの好きでしょ?」
「……ッ!」
「押入れにウィッグと化粧道具あるから好きに使ってね。それじゃ、私は子供達に朝ごはん食べさせなきゃいけないから先に行くけど、あなたも準備ができたら給仕を手伝ってね」
いつの間にやら女教師らしいスーツに着替えていたカスミ先生は、そう言い残して部屋を出た。
その場に、時経一人だけが残される。
「全てお見通しってわけか。何者なんだろうな、カスミ先生は」
時経は着替え始める。
「(一度死んで生まれ変わったのなら、新しい名前が必要だな。何がいいかな。そうだな、一条戻橋で二度目の命を得たのだから、その橋の名に因んでここは――)」
厨房に一人のメイドが入って来る。
ホットケーキを焼いていた住職の目がメイドに釘付けになる。
サラダを盛り付けていたカスミ先生も少しだけ手を止める。
「へえ、よく似合ってるじゃない。源氏名はあるの?」
「はい。『一条橋モドル』、と申します」
そう言ってメイドは一礼する。
カーテシーではなく、学校でよくやる直立姿勢からの礼である。小学生でも心得ている庶民的なお辞儀をしたのは、ここにいる全員の立場と場所を考えてのことだった。
また、カッコつけてやり慣れない西洋式礼法で無駄に恥をかくことを避けたのも、これが贖罪による一時凌ぎのコスプレではなく、これから先の未来、ずっとメイドとして生きていく覚悟の表れであった。
厳ついコワモテ陰陽師保健委員・赤井時経、改め、オカマの陰陽師メイド・一条橋モドル。
名乗り口上と共に、今、ここに爆誕す。